中國(guó)と外國(guó)の地図において釣魚(yú)島が中國(guó)に屬すると示されている

1579年(明?萬(wàn)暦7年)明朝の冊(cè)封使蕭崇業(yè)が著した『使琉球録』の中の「琉球過(guò)海図」、1629年(明?崇禎2年)茅瑞徴が執(zhí)筆した『皇明象胥録』、1767年(清?乾隆32年)作成の『坤輿全図』、1863年(清?同治2年)刊行の『皇朝中外一統(tǒng)輿図』など、いずれも釣魚(yú)島を中國(guó)版図の一部としている。

釣魚(yú)島を記録する日本の最も早い文獻(xiàn)は、1785年に林子平が著した『三國(guó)通覧図説』に収録されている「琉球三省並三十六島之図」であるが、この図では釣魚(yú)島を琉球36島以外に記してあり、且つ中國(guó)大陸と同色で示している。これは釣魚(yú)島が中國(guó)領(lǐng)土の一部であることを示している。

1809年フランスの地理學(xué)者ピエール?ラビー(Pierre Lapie)らが描いた『東中國(guó)海沿岸各國(guó)図』には、釣魚(yú)島、黃尾嶼、赤尾嶼が臺(tái)灣島と同色で描かれている。1811年英國(guó)で出版された『最新中國(guó)地図』、1859年米國(guó)出版の『コットンの中國(guó)』、1877年イギリス海軍作成の『香港から遼東灣に至る中國(guó)東海沿海海図』等の地図では、いずれも釣魚(yú)島が中國(guó)の版図に組み入れられている。

それ以外にも、1762年ポルトガル人の『航海針路図』には、釣魚(yú)島及びその付屬島嶼が臺(tái)灣に屬することが明確に示されている。1816年ロンドン出版の『東インド、中國(guó)、豪州周辺の航海指南』は、臺(tái)灣の付屬島嶼が明確に記載されており、その中には釣魚(yú)島を含む各島の経緯度も明記されている。